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東京にある女性のためのDV相談や支援相談。ドメスティックバイオレンス(家庭内暴力)・被害を受けた女性と子どもの支援活動をしています。

DVとは

10. 母と娘のトライアングル2

夏休みに娘と「ゲド戦記」を見に行ってきた。

17歳の少年の父親殺しと自分探しの旅がメインテーマになった話だ。隣の娘は主人公がなぜ立派な父王を殺さなければならなかったか物語の裏に隠されたメッセージを理解する体験をまだしていない。

母親になった私は表のストーリーよりも裏のストーリーの展開が気になってせっかくの美しい映像をほとんど見られなかった。そして、もしこの話を高校生の自分が見ていたらと思うとぞっとしてしまった。

17歳の私は母と言う監獄に閉じ込められまいとして、この物語の主人公のように苦しんでいたのだから。私は思春期は幼さゆえに鵜呑みにしてしまった親の価値観を、一度吐き出して今度は自らどれを自分のものにするか選択する作業だと思う。親がどんなに立派な親で間違ったことを教えてなかったとしてもだ。

私の母はその作業以前に自分の懐から離れることも許さなかった、学校と家の往復以外片時も自分のそばを離れることを許さなかった。もし高校が今のように義務教育的ムードになっていない時代だったら、学校へ行くこともままならなかったかもしれない。

母は私が自分が産んだ女の子というだけで自分と私は一心同体だと思い込んでいた。そして自分で産んだ女の子だから何を言ってもいいとも思い込んでいた。食べ物の好みから嫌いな芸能人まで自分と同じなのが当たり前で、私がそう思っていないことがばれると変人扱いされた。まさに母の価値観を無理やり飲み込まされていたのだ。当時の私は拒食嘔吐が一番ひどい時期だったのだが、今思うとこの母の態度と関係があるように思える。

物語では少年は、父親と同世代の男、大賢人ゲドに出会い一緒に旅をする中で自分の弱さと向き合うすべを学んでいく。まさに思春期の子どもにとって親の指導はいらないけれど、大人が要らないわけではないことを物語りは教えてくれている。

17歳の週末はいつも母との言い争が夜が明けるまで続いていた。日曜日に友達と出かける約束を母の許可を得ないまま勝手に学校でしてくるからだ。どんなに根気強く話しても最後には言い争いに持っていかれ反対されたまま出かけることになる。

そうして家に帰ってきたあとは、最低でも3日長くて1ヶ月口もきいてくれないし、食事も私の分だけ食卓に並んでいない。いわゆるシカトという状態が待っている。父も兄も自分へのとばっちりを恐れて見てみぬ振りで、私がはなからいなかったかのように何事も無かったかのように日常は過ぎていく。今でもよくあの時に親を殺さなかったものだと自分の自制心の強さに感心する。

思春期の子どもを親だけで何とかしようなど命知らずなことだと、あの当時に自分の抱えていた心の闇を思い出すたびに私は思う。思春期の自分を私はブーメランのようなものだと思っていた、思いきり遠くへ力強く放り投げてくれれば、必ず母の元に返って来るのにどうして信じてくれないのだろうかと、手放してくれない母に愛情よりも、一人の人間として認めてもらえていない憤りと悲しさを感じていた。

当時は母の行動がまったく理解できなかったが、今10歳の子どもの親になった私が振り返って母を見た時、母自身が思春期の通過儀礼を経験しないまま人の親になってしまったのではないかと思う。自分と私の違いを認め受け容れることができなかった当時の母は、もしかしたら今暮らしている娘より精神的には幼かったのかもしれないと思うのだ。

小4の夏休み娘はこれから来る思春期へのエネルギーを蓄えているかのように密着してくる、一日中「おかあさん」の大安売りだ。飼っているウサギにまでもヤキモチを妬き私を独占しようとする。うっとうしいと思いつつもあと少ししたら手放さなければいけないのかと思うといとおしく、今がきっと一番母として充実して幸せな時間を与えてもらっているのだろうとも思う。

その時が来たら意地でも思いきり遠くに放り出してやる。 そしてミーティングで「娘が行ってしまったんです」とボロボロ泣くんだろうな。

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