3. カオナシ
7月24日父が胃癌で亡くなった。
通夜の席でふと、父も母も「千と千尋の神隠し」に出てくるカオナシに似ていると思った。カオナシは普段はおとなしく目立たない影のような存在だ。飲み込んだ相手の声をかりてしか人と話ができない。物語の中でカオナシは手からこぼれるように砂金を出す。みんなは少しでも多くの砂金をもらおうと、カオナシにおべっかを使う。
優しくしてくれた千尋のためにカオナシが、砂金をたくさん差し出すけれど千尋は「ほしくない、いらない」とことわる。みんながほしがる砂金をいらないと言われ、カオナシはどうしていいのか分からない。そして暴れだし次々とまわりの者を飲み込んで、膨れ上がったカオナシに千尋は「私のほしいものは、あなたには絶対出せない」と告げる。カオナシは千尋から飲まされたお団子で、飲み込んだものを全部吐き出し、元の姿に戻り、千尋とともに旅に出る。
砂金をうけとった者は飲み込まれてしまったけれど、自分に必要なもの以外を受け取らなかった千尋は、飲み込まれなかった。受け取ってもらえなかったときの、カオナシの切なそうな声。急に怒り出し、すべてを飲み込み、肥大化した自分の体で身動きが取れないカオナシ。自分の言葉で話すことができないカオナシ。砂金は、やさしくしてくれた千尋への、お礼のつもりだったのだろう。
私は物心ついたときから、母からは父の悪口、父からは母の悪口を聞かされて育った。その埋め合わせのようにお金をもらった。子供のころは、こんなのは愛情じゃないとよく親に食って掛かった。でも親の、「じゃあ何が愛情だと言うんだ。言ってみろ」という問いに当時のボキャブラリーで、漠然と感じている寂しさを言葉にはできなかった。
もっともできたとしても屁理屈を言うなと怒られるだけだっただろう。長い間理不尽さと寂しさとを抱えて、お金や物をかたくなに拒否した時期もあった。20歳を少し過ぎて、彼らにとって自分たちの人生がうまくいかないのは、お金がなかったからだと本当に思っていて、だから子供にはお金を与えることが愛情だと思っているんだと気がついた。
でも二人の生い立ちや夫婦のもめごとの話をずっと聞いてきた私は、二人の生き辛さ(そしてその頃には自分自身の生き辛さにもなっていた)の本当の原因は誰とも心が通っていないことじゃないかと思っていた。それをなんとか伝えようとするたびに、両親といい争いになり、やりきれない思いを何度も味わった。
「私のほしい愛は、この人たちは絶対くれない。でも愛がないわけではない。」その時の、きりきりする痛み、絶望、悲しみ、刹那さ、今でも生々しくよみがえる。何ヶ月もかけて、苦しんで出した結論は、与えられるものだけ受け取って、あとは望まない。日本ではたとえ器だけでも、家族があるだけで社会的に守られていることもある。
かたくなに拒否するのでもなく、弱みに付け込んでせびり取るのでもない。必要な分だけありがとうと言ってもらう関係を。馬鹿な生き方かなとも思っていたが、20年以上守っている。通夜の席で、カオナシのことを思い出したとき、私は余分に受け取らなかったから、父に飲み込まれずに済んだし、父も肥大しないで済んだのだろうと思った。
自分の顔が無く、自分の言葉を持たないカオナシは、私の中にもいる。健全な人間は、決してそんなカオナシから搾取はしない。私自身も千尋のような人と関わりを持つように生きてゆければ、生い立ちの中で生まれてしまった自分の中のカオナシを肥大化させずに暮らせるのだろうか。