9. 母と娘のトライアングル
私が母の娘としての役割から、自分の娘の母という役割も果たすようになってこの春で10年になる。この中間管理職(笑)のような立場に身をおくことで、今までに気づかなかったささいなことが自分の子ども時代の心の成長に微妙な影を落としていたことにあらためて思いあたってしまった。
一昨年くらいまでのカウンセリングでは、はっきりと暴言とわかるような言葉や、躾という暴力など鮮明に記憶に残っているインパクトのある出来事を主に話し続けてきたのだけれど、それなりに楽にはなったものの根本の部分の解決にはなってない。どこか苦しいし過食症から開放されない自分をもてあましていた。覚えているほぼ全てのトラウマと思える話は、話しつくしたのに何でアデクションから開放されないのか行きづまっていたときに私の娘が小学生になった。
私は小学1年の夏休みくらいから体調を崩し、小学4年生まで運動を一切禁じられてしまった。その間のできごとをほとんど覚えていない。以前保育士をしていた仲間にこの話をした時に、彼女が涙を流してそんな辛いことはなかったでしょうと言ってくれたが、私には何故彼女が泣いてくれたのかさえよくわからなかった。自分の記憶の中では運動できなかった時より、普通に体育の授業に参加するようになったときに、跳び箱も鉄棒も縄跳びもすべて4年生ができて当たり前のことができなくて、体育の授業でとても惨めだったことのほうが辛さとしては鮮明だったからだ。
娘は今年4月で4年生になる、この3年間母親として子どもの成長を見守っているうちに、私は彼女が何故私のために涙を流してくれたのかがわかってきた。言葉をうまく使えない子どもにとって、身体でストレスを発散することがどれほど大切なことか初めて理解した。廊下を走ることも許されない私、体育の時間はいつも図書室で一人本を読んでいた。
登下校の時友達が走り出すと一人ポツリと置き去りにされた。何故記憶が無かったのか、登下校の時も、休み時間も、家に帰ってからも友達がいなかったのだ。今思い出せば最初の頃は、友達に置いていかれた時、毎日の日課のラジオ体操のとき、運動会の練習の時、仕方がないのだと思いながら胸が苦しかった。
だから母に何で運動をしてはいけないのか聞いたような気がする。その答えは医者に言われたことを繰り返されただけだった。その答えを聞いて私はもっと苦しくなったけれど、どう言葉にしてよいかわからなかった。思いついたのは「みんなと同じように走りたい」と言う言葉だったが、そう言えば病気なんだから仕方がないじゃないかと、怒られるのはわかっていたので苦しいままに何も言わなかった。
今自分が母親になってみるとその時に私は、うまく言葉にできなかったけれど自分の感じている気持を、母に感じ取って欲しかったんだと思う。実際に子どもはよく今日こんなことがあったという話をすることが多い、その中でちゃんと聞いてあげているのに何度も何度も同じ話をすることがある。
こっちもいい加減にしてくれと、ふと顔を見ると子どもの表情がいつもと違うので、それであなたはどう思ったのと聞き返すと、あっ、やっと話を聞いてもらえるという表情をする。そして私の言葉を助けに自分の言葉になら思いを言葉に紡いでいく。その気持に共感してあげると、あっけないくらいケロッと元気ないつもの娘にもどるのだ。
たぶん私はその時の母とのやりとりで、自分の話が聞いてもらえないことを悟ったのだと思う。「病気なんだかしょうがないでしょう」そう自分に言い聞かせて、何があってももう何も感じないようにしようと心に決めたのだろう。母として娘の気持を紡ぐ手助けをするたびに、あのときの私もこんな目をして自分の母を見つめていたんだろうかとふと思う。
「おかあさん、なんだかよくわからないんだけど苦しいの。うまくしゃべれないんだけど苦しいの。」 私には娘の目がそう語り掛けてくるように見えるのだ。それは見覚えのある目、記憶の中の子どもの私自身がいつもそういう目をしていた。
「おかあさん、なんだかよくわからないけど苦しいの。わたしこの家に生まれて、気がついたらずっといつも苦しいの。」「美味しい物を食べさせてもらって、きれいな格好もさせてもらって、でも毎日とっても苦しいの。」「こんな風に思うなんて私って悪い子なのかな。おとうさんおかあさんごめんなさい」「きっと運動ができなくなったのは、こんなわがままな私への神様の罰なんだ」